夕飯のスパゲッティが悪かったのだろうか。タバスコと黒胡椒をたっぷり振って食べたから喉が渇いてしかたがない。このままでは眠れないので、台所まで歩く。暗闇を歩く足に猫がまとわりついて、転びそうになる。猫は小さく唸り、どこかに消えてゆき、僕はシンクにぶつかる。僕に押されたシンクはふわっと動いて揺れて、水音がはねる。ああ、またここにやってきてしまった。喉を乾かしながら眠った時に必ず訪れてしまう港だ。こんな寒い夜には上着が必要だと体を丸めると、もうしっかりと厚手のコートに包まれている。おまけに足元は編み上げのブーツだ。いくら履いても足に馴染まずに、あきらめて靴箱の中に転がしておいたブーツが、今夜は足によく合っている。これはいくら歩いてもよいという報せであり、そして今夜はいくらでも歩かされるという前兆でもある。また水音がして、暗い水面から誰かが顔を出している。いつもこの海で出会う黒い毛皮の人魚だ。
「またきたわね、こんばんは」気さくな人魚は丸い顔の真ん中から綺麗な尖った歯をのぞかせて笑う。
「おかしいね、この頃はちっとも酔っぱらっていないじゃない、どうしたの、具合でも悪いの」
「いや、前よりずっと元気だよ、ただ、飲まなくなっただけだ」
「へえ、まあでもいいことじゃない、もう一生分飲んだんじゃないの、この海を飲み干せるぐらい」
「あまりおかしなことは言わないでくれ、お前が何か言うと、すべて本当になってしまう、ほら、お前のせいで僕は今海の中にいるじゃないか、こんな波の荒い夜に流されてゆくじゃないか」
「じゃあ、ほら、飲んでごらんよ、潮水を、喉が渇いているんでしょ、ごくごく飲んでみれば」
「ああ、そんなことを言うから、僕の口が開いてそこから潮水がどんどん入ってくる、僕はそれを飲み続けなくちゃいけない、喉を動かすのをやめたらたちまち溺れてしまう」
「いいじゃない、こんな時ぐらいちょっとはがんばりなさいよ、お腹が一杯になったらじゃんじゃんおしっこすれば大丈夫よ、ほら恥ずかしがらないで、しーしー、とか言ってあげようか」
「やめてくれ、いい年して小便をもらしたくない、今僕は海で溺れながら同時にベッドの上でうなされているに決まっているんだから、どうにか助けてくれ」
「いやよ、助けられない、あなたが誰のことも助けられないように、あたしも誰のことも助けられない、助けたくないし、助かりたくもない、そうあたしはね、助かりたくなかったんだよ、それをあなたが少しだけ助けようとした、助けられるわけもないのにね」
「助けてくれ、もう二度とお前のことを助けないから、誰のことも助けようとしないから、頼むから僕のことを助けてくれ」
重くなったコートが体にまとわりつき、ブーツは僕を海底へと引っ張ってゆく。沈んでゆく僕のまわりを人魚がくるくると回って泳ぐ。いつのまにかあたりは人魚だらけだ。女の人魚だけじゃなくて、中年男も、少年も、老人たちもいる。だんだん沈んでゆく僕を中心にして、何百人もの人魚たちがぐるぐると回っている。愉快な眺めだ。こんなにおもしろいものを今まで見たことがない。僕は喉の乾きも忘れ、人魚たちの旋回パレードに魅入ってしまった。もう誰の助けもいらない。僕の口は嬉しさのあまり、さっきからぱっかりと開きっぱなしだ。
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